昭和44年 8月28日 朝★
御理解第76節
「人間は人を助けることができるのはありがたいことではないか。牛馬はわが子が水に落ちていても助けることができぬ。人間が見ると助けてやる。人間は病気災難の時、神に助けてもらうのであるから、人の難儀を助けるのがありがたいと心得て信心せよ。」
神様がお喜びくださるという、それは難儀な氏子が助かっていくと、1人でも多くの難儀な氏子が助かっていくということを、第一の喜びとなさるように思います。世の中の難儀な氏子が1人でも、助かっていくということをお喜びになるのは、天地金乃神様であります。
ですから、それほどしのお喜びを頂く、人が助かるということですから、その喜びが助ける働きをなさる人たちの上に、特別のおかげが頂けるのは当たり前。人間は病気災難の時、神に助けてもらうのであるからと、そういう働きが特別に起きてくる時も、まちがいないようですね。
人を助けるということ。だから、人を助けることの働きができるのが、人間だと。牛やら馬は自分の子供が、水に溺れておっても、それを救うこと助けることができない。
それなのに、その人間は人を助けることができる、助ける働きというものをですね、やっぱ身に付けていかなければ、人間の値打ちも発揮されないわけですね。人んだんじゃなか、私が助からなと、私がというそのようなことでは、いけないことが分かります。しかも、だんだん信心をさして頂いたら、人の難儀を助けるのが有り難いと心得ると仰る。心得る。
人が助かっていく。ね。仏教ではそれを済度という。お済度か。お済度のできれる信心、そういう心得というものがなからなければ。そのことが有り難いと心得て信心しちゃるを、教祖様は此の方は人が助かることさえできれば、とこう仰る。
条件はいらん、何にもいらん。人が助かることさえできればと。まぁそこで、まぁ、助けたいという、まぁ一つの念願というかね、そういう悲願に私どもが生まれる。ね、どんなことがあっても、自分の一生一代のうちにですね、十人の人を助けたい、百人の人を助けたい。千人万人をも助けたい、いったような悲願を起こすといったような、これは素晴らしいことだと思いますね。
ね、だからそういう、悲願の現れて、それが成就していくということを有り難いと心得て信心さして頂いたら、素晴らしいことになるだろうと思うね。一人助かった、二人をお導きができた。もう5人、10人お導きができたといったようにですね。
それが有り難いと心得れるようになったら、ですからこのことはですね、もう人が助かるということ、もういつも心の中に思うとかないけん。どうでしょうか、じゃあ、今日を境にですね、そういう悲願を立てられたら。
ね、だから、初めから千人も万人もとはいけますまいから、ね、せめて一年に一人づつくらい助かる人、ね、助けることのできれるおかげを頂かしてくだされ、といった願いを。これだけは本当に「どんなことがあっても?」一つ、本当の助かっていく人、いわゆる本当にありがたい信心に導かれていく人達が、自分の信心によってできてくる、私はそういう念願を一つ目指されたらどうだろうかと。
人がそうして助かっていく、これから30年、例えば、長生きをすると30人の人が助かる。ね、しかもそれがね、有り難いと心得て助かる。有り難いと心得て信心せよと仰る。私、やはり、その願いを持たないかんと思うですね。
まぁ、偶然、気の毒な人があったから、とにかく合楽に参ってみなさいと。これではあまりにも不親切なことですね、それだけでは。昨日、昨日の晩でした、あの、福岡の杉山さんから、電話がかかってきた。同級の友達で、小学校の友達で、えー、「 ? 」という人がそちらに行きますから、どうぞよろしくお願いしますという電話であったと。
ちょうど、私は「高嶋さん?」ところの霊祭、それにちょうど、「 ? 」さんの、「 ? 」学院の友達がちょうどいっしょに、あれやらこれやらお祭準備さしてもらいようところに来ましたから。
とにかく、もう15分しか面接する時間が、もう「 ? 」時間が迫っておる。だから、簡単なところどういうところでお参りしてきたか、そのわけ聞かせて頂いた。ところが何か、やっぱり慣れないものですから、私の前の控えで「 ? 」でかかっておったんですけれども、まぁ、モジモジしてその「 ? 」ありますけれども、と言うてから、色々尋ねに来ているわけなんですね。
「 ? 」その方の名刺を頂いてから、何ていう方、看板屋なんだ。それでそう言いよる間に時間が迫るもんですから、神様にお願いさして頂いたら、『矢も折れた玉も尽きた』と頂きました。矢も折れた玉も尽きたと。
はぁー、これは後に残るのはもう肉弾だけしかないんだなぁ、と私は思った。けれども後の肉弾でです、ようは体当たりでです、しかも生神金光大神様を唱えながら、体当たりしていけば助かると私は思う。
どういう問題かは知らんけど、今ね、私はこんなこと頂いた、先生それでございますとこういうわけなんです。ね、もう、11年か、12年かその看板屋をしとりますと、初めの間は調子が良かった、技術だけは、もう福岡で、その誰にも負けないほどの技術を持ってるんですけれど、どうも次々とよくないことが起ってまいりますと、何かこう、お障りでもあるんじゃなかろうか。自分にはだいたいこの商売が向かんのじゃなかろうか、と最近思うようになりました。
そこで、たまたま杉山君にそのことを話しましたら、まぁ合楽に行ってみれと。そして、お前の商売ができんのなら、他の商売に転向しろと、いうふうに言われました。というわけなんです。
それでまぁ、ゆっくりできるなら、今から御祈念ですから、御霊様祭りもありますから、まぁお祭りでも拝まして頂いて帰りなさい。だから、今のそのことで非常に元気づいたんですね。
もういけないと思ったところが、何にも、もうその確かに矢も折れ玉も尽きている状態ですから、なるほどこれから一つ体当たりでいこうと。それでその元気が出てきた。商売は私には向かんということじゃにですね、おかげが頂けれる、とくにその元気を出して、そこでその、ちょうど、「高嶋さん?」ところの霊祭でしたから、久留米の石井きよしさも参拝してきとった。
私は有り難いと思うですね、初めて知らない人が参って来る、きよしさんがその人を捕まえてから、お祭りの始まる前に色々とですね、そのおはなしをしているんですよ。皆さんもご存知、きよしさんという人は、なかなか変人です。
変人、それこそ素晴らしい変人です。もうとにかく腹を立てたら馬鹿らしかという人なんです。どんな御用であっても、それがおかげを頂くコツであると、それを自分でも知っておる。
その人に捕まえられて、その人に、まぁ、話を聞いて、はぁー、やっぱり神様はおかげ下さるなぁと私は思った。眠たいまんまで帰らんか、だから、お祭りが終わってから、なら御直会でも一緒に、御縁ですからというて、一緒頂いて、えー、とにかくまた出直しておいでなさいと、いうて帰られましたが。
まぁ、そこまで助かってきた、ね、いうならば。もう助かりかけてきた。だから、私は本当に人を助けるということの念願に、例えば、杉山みつおさんが、燃えておったらですね、もうこういう助ける時期やら、チャンスはないです。
お前、昨日行ったかと、行ったと。ならここどうなったか、「 ? 」だったと。うんなら、本気でいって一生懸命参れていって、いや、恐らくお参りもしてくるだろう、苦しい時ですから。
ね、けれども、ただ行き当たりばったりですよ。そこに難儀な人がおったら、とにかくいっぺん参ってみれって、だけでは助からんと。ね、やはり。ですから、今日私が申しますように、人の助かるということのですね、その悲願にも似た願いを立てるということ。 どうでもこうでも、一年に一人ぐらいは本当の助かる人達ができてくる。
自分の信心によって、助かる人ができてくることを有り難いと心得ておったら、これからその、「 ? 」に対して、どういうふうに活動していくのか、分かりませんけれど、そういう例えばきっかけを作ってやるだけではなくて、それからその人が助かることのために祈り、助かることのために手をひいてお参りをしてあげる。信心を分からせる。
とくにその人の、助かる生き方、助かる、またその人の芯が助かってくる。なるほど一粒万倍ということを仰るが、一粒万倍のおかげ頂けることになる。そういう、人が助かっていくということがです、神様の一番の喜びであるならばです、その喜びが、ただいまみつおさんの例をとりましたが、久富みつおさんが助からないはずがないです。
ね、人が助かることをありがたいと心得て、一つ信心さしてもらおうじゃないですか。ね、はじめから千人も万人もといったような願いは、なかなかですけれども、ね、年に一人ぐらい、一年間に一人ぐらい、本当に助かる人をですね、御縁を、御縁として生かしていくおかげを頂きたい。だから、その念願に燃えなければいけんということです。ね。
桂先生のお弟子の中に、日吉つるという女のお弟子さんがあった。もう本当無筆であり無学の方である。難渋な病気のために、ご神縁を頂いて小倉教会におかげを頂けれたのがはじまりで。遠賀、遠賀川のあそこは「 ? 」芦屋というところがある、ね。ここに以前みえておりました、日吉という先生がおられますが、その先生の義理のおばあさんにあたる方。
そこの日吉先生の教会を一番はじめに創立された方なんです。ね、なかなか熱心なお方であった。ね、今のように乗り物がない時ですから、芦屋から小倉へ歩いてお参りした。というて、しげしげと毎日参ることもできない。一日がかりで参らなくてはいけない、お弁当持ってって。
そこで、10日間、10日にいっぺんづつお参りすることを、心願された、願いをたてられた。ね、毎日、まぁ三度の食事の中からお米を一合づつ節米された。ね、一合づつ、だからその一合の米が一升になったときがちょうど10日なんだ。
一升の米を持ってお供えをなさる。お供えをして桂先生の御取次を願われる。というような、まぁ熱心な打ち込み方であった。やはり私はね、信心というのはね、そういうような心がけが大事ですね。
暇がある時は参る、お金がある時はお供えする。なか時はなか時というごたぁふうじゃなくて、どうでもこうでも十日にいっぺんは、しかもそれは、自分の身を絞るようにして、一合づつの米を貯めていかれる。
ね、様々な難儀な問題を持っておられる。そりゃ難渋な病気を持っておられる。ある時に桂先生が、人の、『人を助けて我助かれ』というお言葉を頂いた。それからは、自分の近郷近在の難儀な人達を訪ねまわってから,そのお道の話をなさった。
ね、ご自身は助からないけれどもです、その難渋な病気を持っておられた。その病気の方はおかげになってなかったけれどもですね、だんだん自分の周囲に助かっていく人がでけた。
ね、ですから、芦屋公社という公社がでけた。一つの信心をする人たちの集い、集まりがたくさんでけるようになった。日吉つるの信心の話を聞く人が助かるようになった。ね、そして、御自身がもちろん助かった。助かられたわけです。
ね、ある時の御参拝の時に、その一升の米をまだ持ってお参りになっておる時ですね。10日いっぺんのお参りの時に、桂先生はそれをお供えをなさって、御取次をなさって御結界につかれてから、まぁ、御伝記にはお裁伝、御裁伝ということになっておりますけれども、実を言うと御裁伝というのは、教祖御一人ということなっとる。ね、御裁伝というのは御祈念をなさるときに、そのまま神様がその取次ぎ者のそれに、まぁ乗り移られるという感じでしょうかね、そして出るお言葉です。それを御裁伝という。
だからこれは、教祖御一人ということなっておるから、これはまぁ桂先生の場合ですけれども、まぁ神様にお知らせを頂かれたということでございましょう。それは御伝記には御裁伝とありますね。『日吉つる、真の信心になった』と神様が仰ったそうです。
そういうしげしげと、10日にいっぺん一升のお米を持ってお参りなさる。それをお取次ぎなさった、そのね、真の信心になったと。日吉つる、真の信心になったと。
ね、『これからは神が、千人の上に立ててやる』と、だからいうならば、千人の上にも立ててくださるほどしの、神様のお喜びというものがです、そこで、日吉先生のご信心、心の中にです。とにかく、千人の人が自分ひとりの信心によって、助かることのできる悲願といったようなものを立てられたのではなかろうかと思います。
それから、公社が教会になり、いわばそこの芦屋教会の初代教会長として、大変なごひれいを受けられたということでございます。ね、ですから、私どもがそのやはり願いに立たなければいけない。
人が助かるということに、しかも、それをありがたいと心得て信心しなければいかん。そこんところを、ありがたいと心得て、今日のご理解を頂かしてもらった今日を境に、ね、本気でそのことを一つ考えなければいけません。
ね、それもただです、行き当たりばったりに、難儀な人があるから、ああ、そんなら合楽に参りなさいというて、連れてまいったとか、教えてあげたというだけじゃいかん。本当に助かること、その人が助かられることを念願としなくてはいけん。
そして、ある場合にはひいてあげる、ある場合には後押しもしてあげる、といったようなです、本当に助かっていくということのおかげを頂く。何かですね、お導きをしてからいっぺん参ってくると、それから先はね、もう先生の責任になると思っとる。
そして、私がお導きしたばってん、先生が助けきらんらっしゃった、いったような考え方ではではいけない。ね、もちろん先生の力によるところですけれども、ね、それをまた押したり引いたりするだけの、私は御用が人が助かることの、御用だと私は思います。
せっかく、ご神縁を頂かれた、そのご神縁が本当のご神縁になっていかなければ、ね、そのためには、その人の、場合にはだれておるときには、力もつけてあげる、ね、ある方なんかは、ね、その人をお導きさして頂いた時からですね、もう定期券を買うてから、その人に渡された。どうでもこうでもお参り、毎日お参りしなさいと。
というようにですね、そこに様々な工夫がやっぱりなされなきゃいかん、人が助かるということについて。そこにです、ね、なるほど、人を助けて我助かれという意味が、よう分かってまいりましょう。
人が助かる、難儀な氏子が助かるということが、神様の第一の喜びであるとするならばです、その喜びが助ける氏子の上に、反映しないはずがないです。ね、だからどうぞ皆さん、本当に今日を境にですね、そういうお導きしようとかね、できるだけ信者が増えること、そのまま教会のごひれいだから、思っちゃおるけれども、そういう一つの悲願にも似たような願いを立てていないのです。
だから、お導きしたばってん、もう参りなさらんけん、それまででほうからかしてしまうと、いったようなことになってくる。ね、そこんところをです、私はもう少し、何て言うんですかね。
先日、「 ? 」時に、ダイナミックな信心といったような話が出ておりましたがですね、いわゆる活力のある信心という意味だそうです。ね、生き生きとした力、ね、そういうものが例えば、お導きならお導きというか、人が助かるというかね、その助かるということに、その力が注がれるということが、私はありがたい。
なら、それをまた、ありがたいと心得て信心させてもらう。素晴らしいことですね。私は今日、今日のご祈念、朝のご祈念の境に、一つ私の信心がありがたいことに展開していったお知らせを頂いた。
ね、それも最近、私は「 ? 」ますように、本当にこの世界の立ち行き、世界中の氏子がそれぞれの立場でです、立ち行くというおかげを頂くということに対して、真剣に願わなければおれない気持ちが、だんだん強うなってきた。
ね、ところがね、そのことはだから、ご祈念の中に必ずのごと、もう本当にそれを祈る時、願う時に切実にね、本当にそれを願う時にありがたいです、これが自分が、願えておる自分がありがたい。
それに「 ? 」や、小さいこと一つを焦点にしてから、一生懸命修行しておる。ね、大きな信心をせよと仰るでしょう。大きな信心には行き詰まりがない。世界中のことに命をかけて祈れるようになる。大変な大きなことですよね。
ですから、大きな信心には、絶対行き詰まりがない。お金のお繰り合わせ頂くことのためだけに、これば、この念願ちゅうのが小さいこと。それに例えば、もうそれはいくらお参りしたって、それだけだけなん。いくら修行がでけたってそれだけのためなんだ。
だから、そういう願いは、神様が聞きなさってもです、ね、またはそれが神様の本当のご神意でないなら聞きなさることもない。だから、自分の念願が叶わなかったというて、信心が、そこで挫折するすらが、小さい信心。
ね、せっかくおかげで助かるならばです、ね、本当に、えー、泉尾教会の三宅先生は、もう必ず最近言うておられることは、世界助けという言葉を使っておられるね、いつも。世界助けという。大きい、なるほどやっぱ、ああいう大きなおかげ頂きなさるはずだと思う。
ね、今日、私はご神前に出らして頂いて、そのお願いをさして頂きよりましたらね。
『これからはね、ここに関わり合いのある御霊たちのことの、助かりを願うように』頂きました。そりゃ、ご祈念はいたしますよ、御霊様、毎日こうしてご祈念さして頂いておりますけどね。
例えば、ここでは皆さんの一人ひとりが、助かれることをお取り次ぎさして頂きますがですね、もうこっちは気も付かなかったり、まぁ気も付いたところでです、ね、私が祈ったところで助からない。
ね、例えば、今日からはです、ね、人間の助かるだけではなくて、御霊の助かりのことまで願えと、こう。はぁー、今日のご祈念から、一つ願いが増えた。いわゆる現世、または隠り世と申しますかね。
現世隠り世、あの世この世を通しての、人が御霊様が助かれれることが、願えれるだけの信心。ありがたいことだ自分で思う。ね、しかも、そこに御霊様方が、一人ひとり助かっていかれるということを、楽しみに信心させてもらう。ね、それを楽しみに信心さしてもらえれるということがありがたい
また、今日頂きますことの中に、『打ち向かう者には負けて、時節に任せ』という御理解がある。これは御神訓にあります。打ち向かう者に負けて、時節に任せと。
これはどういうことになりますかというとですね、打ち向かう者には負けて時節に任せろ。「 ? 」なことを言うと。はがいいことを言うと。腹の立つことを言うと。喧嘩売ってくると。
ね、そういうのを例えば商売人であると、商売敵といったようなことを申します。ね、だから、打ち向かう者には負けて時節に任せよということになるとですね、自分自身が助かるだけではなくてね、その打ち向かうてきた者までが助かるんです。
いわゆる自他共に助かる。ははぁ、ここにもね、人を助けるということがあるということを頂くんですよ。ね、打ち向かう者は負けて時節に、なら私が最近言ってる、黙って受けて黙って与えるということ、そこにはね、黙って受けていく私もおかげを受けるが、黙って与えられておるその人も、立ち行くようなおかげになっていくのだ。
はぁー、助かる。人を助かるってことは、必ず手を据えたり、口で言うて聞かせたり、「 ? 」することだけではないと。打ち向かう者、本来自分の敵までも、助けていける道だということ。
素晴らしいことだと。自他共に助かっていけれる。ですから、人が助かるということについてです、ね、打ち向かう者には負けて、時節に任せるというようなことは、ね、人をこりゃいよいよ助ける素晴らしい私は働き。
ね、そこにそのダイナミック信心というようなのが必要なんですね。本当に活力をこちら自身が持っとかなければ、できるこっちゃない。それこそ打ち向かう者には、負けるどころか、打ち向かう者には打ち勝とうとする。
ね、心の中に生き生きとした、いわゆる活力は、心の中に脈打っとかなければです、そういう働きになってこない。ね、あれがどう言うた、彼がどう言うたというて、いちいち腹立てるようなことでは、だからもう全然、その生き生きとした信心がでけてない証拠なんだ。
ね、これでは自分も助からんが、人はいよいよ助からん。だから、人が助かるということにです、ね、神様が一番お喜びになるようなことならばです。人が助かるということに焦点を置こう。
人が助かるということにです、一つ念願を燃やそう。悲願を立てようと。そういう悲願に立ってです、せめて一年に一人だけでもという、神様へ願いをかける。どうぞ一年に一人でも、あなたの難儀な氏子の助かっていかれることの御用をさしてくださいというような念願に燃える。その人が助かっていかれるということが、楽しみであり喜びである。そこに生きがいがある。そこに生きがいを感じられる信心。
ね、そういう信心をさせて頂いたら、ね、これはまぁ、結論ですけれども、ね、そこに自分の助かっていく道が頂けるのでないか。人が助かることによって神様のお喜びをかうことができる。そのお喜びが、私が助かることのもとになってくるということになるのです。
ですから、ここんところは、まぁいうならばその焦点に置いてはならない。自分が助かることのために人を助けるというんじゃ、いわば何ていうでしょうか、いよいよ神心が強うなって、人が助かることさえできればと、自分が助からなくてはならんっていうんじゃにない。
教祖様が仰る、人が助かることさえできればいいと、とりあえず自分がどげん苦労したっちゃよか、どんな修行してもいい、人が助かりことさえできれば。ね、そこんところのいわば信心っていうかね、いよいよ神心を強うさせて頂いて、おかげを頂いていかなけらばなりません。牛やら馬は自分の子供が水に溺れておっても、助けることができぬ。
ね、なら例えば人間であっても、人の難儀を見て知らんふりしているようなことではです。ね、いうなら、牛馬と同じようなことになる。ね、人間は人の難儀を見れば、助けてやれれるものを持っておる。
ですから、それを信心によってフルに活かしていこうと。ね、そして、いつも自分の心の底にです、ね、人が助かっていくことが、ありがたいと心得させてもらえる、楽しめれる信心。ね、そういう信心を、いわゆる一心発起したらどうでしょうかね。どうぞ
佐田與一郎